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 relevos.6〜10

relevos(リレーエッセイ)は、気ままに連鎖します。
当財団は口をはさめません。


 relevos.6 深代 達也 「「音」と「私と…」

 私がいまとても関心を抱いていることの一つに「音」があります。
 日常では色々な「音」を感じることができますが、これらの「音」は原理的にはサイン波と呼ばれる1周期の波とその倍音に分解できると考えられています(図で示せなくてごめんなさい)。
 この原理を電気的に再現したものが電子楽器であるシンセサイザーです。
 そもそも音楽を愛好していた私は、ギターやピアノの音響も大変愛していますが、シンセサイザーの興味深い点は、波(波形)自体を組み合わせ日常に存在しない抽象的な波(「音」)を創れる点です。サイン波はそもそも「ポー」という音なのですが、一定周波数のサイン波に周波数の異なるサイン波を複数掛け合わせると、バイオリンのような音になったり、鐘の音のような音になったりします。
 また、こうした波そのものの原理を探求していくと、色々な気づきを得ることができます。
 例えば楽器でドミソの和音を弾いてみると安定した響きを感じとれますし、こうした響きやリズムを応用して、リラクゼーションのみならず最近では音楽療法等へも「音」が活用されつつあるようです。
 そもそもドミソの和音が安定していると感じられるのは、ミやソの音を構成する波の周期がドの波の周期に包摂される関係にあるためですが、人間にとって一定の効果(脳波の変化等)があるということはそれだけでは十分な説明がつきません。
 ところが物質は粒子性と波動性の双方を備える(物質と波動エネルギーは同じものの2つの側面ある)という量子力学の考え方によれば、こうしたことも説明できそうです。
 つまり、「音」が波(リズムを持った揺らぎ)であるのと同様に、生体としての私たち自身も波(波動エネルギー)から成り立っているため、私たち自身の波(波動エネルギー)と「音」の振幅とが、ある地点で共振し、それがいわゆる「心地よさ(=脳波の変化等)」を生むのだと解釈できます。
 また、私たち人間それ自身の生体は「マルチオシレーターシステム」といって、2種類以上の振動子を備えており、それによって体温の維持や、睡眠・覚醒のリズム、脳波等を恒常的に創造していることが時間生物学という領域において指摘されているようです。(ちなみにシンセサイザーの波を発生させる装置もオシレーターと呼ばれます。)
 私たちも「今日は乗っていない」とか、「君とは波長が合う」とか言ったりしますが、それは単なる比喩ではなく、自分自身の波動としての状況や、自分の波動と相手の波動との関係を無意識に表現しているのかもしれません。
 私の「音を表現したい」という情動はまさにこうした生体に通底する根本から発しているのでしょう。いや、音に限らず絵画や映像、そして言動(この文章!)さえも各人の備える固有の生体エネルギーの表現である点は同じでしょう。
 こんなことを探求しているうちに、「音」と「音」との関係、「音」と「人間」との関係、「人間」と「人間」との関係等々、通底する「波」というコンセプトに対して不思議な魅力をますます感じています。


深代さんは、こんな人… relevos.5 吉村秀一
彼の名は、深代達也、32才。江戸川区在住。職業、空間プランナー、年中多忙をきわめる。彼は、根っからの“マニア”だ。何においても“マニア”なのだ。彼は、“マニア”ならではのバイタリティに溢れている。そんな彼を私は尊敬している。



 relevos.7 林 冬彦 「絆を探して、そして深めて」


 昨夏中国内蒙古地域の砂漠植林ボランティアに参加した。その旅の中で目から鱗が落ちることがあった。
 まず、成田から上海へ渡った翌朝のことだ。早く目を覚ました。(といっても時差の関係でいつも通り6時に起きたら上海では5時だったわけだが)僕はホテルの部屋のカーテンを引いて窓の外を見て驚いた。前の公園にたくさんの人がいる。なにやら体操をしている人もいれば、独り剣を振り回している人もいる。皆、気功をするために集まっていたのだ。僕も趣味で気功をやるので、うれしくなって公園に出ていった。
 6時前だというのに、公園は熱気に溢れていた。自分と気の合う木を見つけてその前で運動している人もいれば、社交ダンスとしか思えないような気功をやっている人もいる。剣舞をしている人もいれば(これも気功)、大きな木の根本にラジカセを置いて、放射線状に集まってテープに合わせて気功をする人達もいた。特に印象的だったのが3人組のおばあさん達だった。彼女たちは背の低い茂みの前で声をそろえて、実に優しく安らかそうに歌っていた。公園を回ってみると年配の方が多く、若い人は希だったが、皆、自然や人と気の交流を行い元気で楽しそうだった。ここには老人が生き生きと一日の活動をはじめる光景があった。
 その日、上海から瀋陽(旧奉天)まで飛行機でわたり、その後、バスで北上すること約5時間で、目的地の内蒙古自治区の庫林旗(クリンキ)に到着した。
 翌日、植林の前に僕ら一行は小学校に立ち寄った。恐らく日本人を見るのは初めてなのだろう、好奇心に満ちた目で僕らを見つめる子供達。そして、中庭で子供達が歓迎の歌を歌ってくれた。最初の歌が「お母さんの歌」、そして「お父さんの歌」「おばあさんの歌」「おじいさんの歌」と家族を思いやり歌う少女の甲高い声が草原の乾いた空気の中に響きわたる。ろくに文具もない小学校。家の手伝いのために子供達は毎日登校するというわけではない。しかし、子供達の目は生き生きとしていた。家族との絆、そして暮らしている地域とのつながり、愛の中で子供達は健やかに育まれていた。
 人や動物・自然との絆を通して愛が流れる。住んでいる地域への愛が生まれる。そして、絆を通して生命が受け継がれる。時には絆づくりの妨げになるモノの無いところで、僕はそれをあらためて確認した。
 これまでの人生を振り返ってみると、僕は実にいろんな人に助けられ支えられてきた。今、住んでいる東京・西荻窪。ここには馴染みのアイスクリーム屋があり、そこのスタッフと友達になり店をきっかけに同じ志向をもつ友人の輪も広がった。愛着の生まれたこの街は仕事で疲れた心と体を癒してくれる。
 人や自然との絆−これが疲れた現代日本が取り戻さなくてはならないものではないだろうか。絆を探して、そして深めて、世間にお返しするような仕事と生き方をしていきたいと、今強く思っている。
 次回は自然のアイスクリーム店長の宮野尾恵さんです。


林さんは、こんな人… relevos.6 深代達也
林冬彦さんは多彩かつエネルギッシュな32歳です。その自信に満ちた言動と行動は今まで多くの人から信頼されてきた賜物でしょう。仕事では国際経済交流のコーディネート、地域おこし活動推進、さらにアフター5では地元杉並の地域活動に貢献しています。



 relevos.8 宮野尾 恵 「幸せの形」

 私は今年で32才。人生の3/1を過ぎ、『人生の仕切り直し』をしようとしています。8月、香港へ移住。海外で働くという選択をしました。7月1日をもって中国へ返還され、世界中がその動向を見守る激動の先の読めない香港。そんな場所へ、私は敢えて行こうとしています。でも、私の新しい人生には寧ろ相応しい。
 そんな私も、この4月までは、東京・松本などに店を構える手作り自然派アイスクリームのお店の総括店長をしていました。
 店舗の企画、設計施工管理の立ち合い、開店までの立ち上げ。店の核をなす部分から細部に渡るまで全てに携わった仕事でしたので、思い入れも愛情も人一倍でした。
 仕事の内容は多岐。一から十までやりました。仕入先の開拓、材料の選択、レシピの考案、アイスクリームの製造・調理、アルバイトの人事管理etc…。ここでの仕事で培われたものの大きさは、はかることが出来ない程です。
 そして、何より多くのお客様に愛される店作りが出来たことに、充分過ぎる程の満足感を味わっていました。何しろ多い日には千人近い数の方が足を運んでくださるという状態でしたので、店頭に立って接客するのは、ありがたいという感謝の気持ちで一杯でした。
 自分の仕事を誇りに思える自分を幸せだと感じていました。
 しかし、プライベートでは非常に大きな問題を抱えていました。
 5年半前に結婚した相手との生活に、価値観と必要性を見いだせなくなり2年以上も解答を探していたからです。
 結婚は一体何の為にするものか?私が本当に心から望んでいる生活とは、何にプライオリティーを置いたものなのか?幸せとは、どういう心の状態のことをいうのか?
 そして結論を出すきっかけとなったのはある人の本の中の一言でした。『人間は、幸せになってなりすぎるということはないのです。』その言葉は、私の心の中に真っ直ぐに入ってきて、光となり、心を自由にしました。
 幸せとは、与えられるものではなく、自分自身の内なるものの投影です。他に幸せはなく、己の中にあるのです。だから、自分の内なる真の声を聞くことは重要です。本当に自分がやりたいことは何か?「出来るハズがない」と直ぐに諦めてしまう人は、何か他に理由を求めて、自分の価値を自ら低めてしまっているように思います。『何か』に執着して変化を怖れて、逃げているだけなのではないでしょうか?
 私は、内なる声を聞き、新しい生活を始めることを決めました。
 これまで生きてきて、決して手抜きをしたり投げやりになったことはなかったと、胸をはって言えます。大切に自分の道を歩いてきました。そして、そういう自分のことを私は好きです。私が幸せでいることで、周りをも幸せにするような輝ける人生を歩んでゆけたらと、思います。
 次回は、私の大切な友人の1人で絵本作家の安楽佳奈代さんです。


宮野尾さんは、こんな人… relevos.7 林 冬彦
彼女の名前は宮野尾恵、30歳前後。千葉県柏市出身、東京都杉並区西荻窪在住。生のアイスクリームをつくって売る店「ぼぼり西荻窪牧場」の店長さん。ここのアイスは砂糖と脂肪が従来品の3分の1でしかも無農薬の素材をつかっているというからたまらない。



 relevos.9 安楽 佳奈代 「木と語る楽しみ」

 私はよく木を見に行く。散歩がてらに眺める街路樹や民家の庭先、公園などの木の他、登山まがいの事をして見に行く巨樹もある。つい最近は、屋久島の樹齢七千年以上と言われる縄文杉に会いに行った。
 どうして木に魅かれるのかわからない。木は大きな存在感を持つくせにまるでそれを消すかのように、まわりの景色に溶け込んでいる。そんな寡黙な雄弁者といった雰囲気がいいのかもしれない。
 木を見る楽しみは、四季を通じると一層のものとなる。春の頃は桜より一足早く、梅、沈丁花(ジンチョウゲ)が香り出し蝋梅(ロウバイ)や連翹(レンギョウ)のやわらかな黄色は、初春に彩りを与える。また、楠(クス)や桂(カツラ)の薄紅色の芽吹きは、葉が緑だという概念を一掃する。桜が満開になる頃は、お花見のついでにモミジの花を楽しむ。四ミリ程の赤い花で、桜のように目立ちはしないが、花の後、すぐ小さなプロペラのような種が出来ていく様が面白い。秋はモミジの天下となるが、桜の紅葉もいい。葉は色付くと、桜に吊り下がり、桜が自身の姿をよく見せる術を知っているかのようである。
 初夏は、競い合うように様々な木が花を咲かせ始める。泰山木(タイサンボク)や藤のような、人目を引く花を楽しむのもいいが、椋(ムク)や柿のように、ひっそりと花をつける木の開花に出会うと嬉しくなる。花が終われば、木々は種や実をつける準備を始める。以前は秋になると、突然現れたような艶やかなドングリや、赤い木斛(モッコウ)や飯桐(イイギリ)の実にハッとさせられたが、今は夏の間に着々と準備していく様子を楽しませてもらっている。お陰で、ここ数年の間に随分、樹木の図鑑が増えた。
 木について深く知ろうとすると、学術的な事とは別に、日本人がどのように木と関わってきたのか、おぼろげながら見えてくる。その事に興味を抱くきっかけとなったのは、写真家の故・星野道夫氏の「私たちには二種類の自然が存在する。ひとつはいわゆる大自然。もうひとつは身近な生活の中の自然。」という言葉である。日本人はその身近な自然と上手に付き合ってきた民族ではないかと思う。それは歳時記や俳句、植物の名前の由来からもうかがい知れる。今でも、たいていの人は、春・夏・秋・冬の風物を問われれば、ひとつかふたつは木や花や虫、野菜や果物、はたまた鳥や魚の名前が出てくるだろう。以前、アメリカ人の友人に「春といえば?」と尋ねたところ、「野球と申告のシーズン。」という答えが返ってきて面喰らった。野菜も果物も殆ど一年中、何でもあるから季節のものがわからないとのこと。日本もそうなりつつあるかもしれない。東京では大自然を感じるのは難しいが、せめて生活の中でしっかり四季を感じていきたい。そして常に、身近な自然と上手く付き合っていけるようなライフスタイルを模索していきたいと思う。それが大自然とも共生していく足がかりとなると信じている。
 次回はデザイナーで、私のよきパートナーでもある安楽豊氏に、屋久島を語ってもらう。


佳奈代さんは、こんな人… relevos.8 宮野尾 恵
安楽佳奈代さんは、見るからにエネルギーの多いいつも元気な人。31才。優しいタッチの中にもキレのある絵を描く、絵本作家。困っている人を見ると黙って見ていられない人なので、貧しい国の子供の里親になっていて、自然保護活動にも情熱を注いでいる。杉並区在住。



 relevos.10 安楽 豊 「屋久島の森」
 
 初夏、妻が、かねがね行きたいと言っていた屋久島へ、半年で二冊の絵本を完成させたお祝いとして、旅行をすることにした。
まだ梅雨も明けて間もない頃、増して一ヶ月に35日雨が降ると言われる屋久島での一週間は、毎日のように雨に降られた。しかし、それもすぐに楽しみの一つとなった。なぜなら、この屋久島の森ができるのに、この雨の多い気象条件が必要不可欠なことを森と接しているうちに実感することができたからだ。
屋久島は、鹿児島県の最南端の佐多岬から70キロの沖合に浮かぶ周囲130キロ、面積は東京都の4分の1、ほぼ円形の島である。特徴的なのは、九州最高峰の宮之浦岳(標高1935メートル)を含む1800メートル級の山岳地を擁することだ。屋久島は、洋上アルプスとも言われる。この高低差の大きな地形と雨の多い気候ゆえに、多種多様な植生をもつ屋久島の森が生まれた。
樹齢7千年以上といわれる縄文杉を訪ねる1泊2日の登山は、森の魅力を十分満喫することができた。荒川ダムから入り、かつて木材運搬に利用されたトロッコの軌道上を険しく流れ下る安房川を見下ろしながら歩く。途中1970年まで森林伐採の作業員とその家族が暮らしていた小杉谷集落跡を通る。そこは森に返され20年と経っていないのに、すでに森の空気が漂い静かな緑の時間が流れていた。
さらに軌道を行く。レールの下の枕木が所々不規則に崩れ朽ちているのがなぜか心地よい。いよいよ大株歩道に入る。歩道と言うと平和的な印象を受けるが、そこは険しい登山道で肩で息をしながら登った。この日は雲が山肌を滑る様に登り、時々雨を降らせ、時々雲間から陽が射した。急な登り、滑りやすい足元、気付くと雨に濡れ、突然暖かい陽の光が体を包む。森の気持ち。この森と同じ空気を吸い、雨に打たれ、陽に当たり、大地を踏みしめ、湧き水をすする。得体の知れない大きな何かを僕らは感じた。そして僕らは緑色の世界の中にいた。頭上は木々の葉で覆われ、幹や地面はシダや苔で埋め尽くされている。目に入るものは緑色だけだった。そこに僕らが存在したのは、この森の様に脈々と繰り返されてきた生命の営みがあったからだ。森の生命との一体感を感じた。
そして縄文杉は、いきなり姿を現した。それを目の前にした時、しばらくぼーっとしていた。凄すぎる存在感に「凄い。」と言うしかなかった。なぜ屋久杉の中でも特に樹齢三千年を超すような巨木に固有名詞を島の人達が付けたのかわかった。人間に有無を言わせぬその圧倒的な存在感がそうさせるのだ。その夜は屋久島の森の中で眠った。
今、屋久島の人達は、この残された自然と共に生きていく術を模索している。大自然と言えども人間の節操のない開発の犠牲になる。あっという間に。屋久島での一週間、太陽や雨、森からたくさんの恵みを受けて僕らの中に何かが芽生えた。今、それは確実に根を張り成長している。
次回は妻の10年来のお茶友達の一柳敦子さんです。


安楽豊さんは、こんな人… relevos.9 安楽佳奈代
彼は、今年33歳になるグラフィクデザイナー。最近では、ブックデザインを多く手がけている。身体がでかいが、心もでかい。おまけに夢もでかいとくる。33歳。「これからだ!」と言う彼のでっかい可能性に期待もでかい。杉並区西荻窪在住。




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